すごい人になりたい。でもそうじゃない。

すごい人になりたい。でもそうじゃない。

すごい人になりたい。

その「すごい」は自分目線のすごいとゆう意味での、すごい人になりたい。

あの人に近づきたいから、認められたいから、すごくなりたいんじゃない。

今日、これは言い訳じゃなくて、軌道修正のために綴る。

特定のものだけを対象として、今を生きるとゆうことは間違ってはない。

間違いなのか正解なのかは、その人それぞれの人生次第。考え次第。

けど、ひとつ言えるのは、それは無限ではない。

それは、脳ではわかっていても、心はやっぱり特定のものにざわつきがち。

褒められたい。
認められたい。
あいつを越したい。
大切なものがあるから頑張れる。
好きな人に近づきたい。

行動のきっかけ、動機、エネルギー源はもしかしたら、そこからしか咲かないのかもしれない。

いきなり雷に打たれたように空っぽの心のまま、己の分身とでもいうべき光だけを見ながら動き出すなんて、心を持った人間には到底無理だろう。

で、本題。

もしその動機の根源だったものが突然いなくなったとき、人はどうする?

また新しい動機の根源を探す旅にでる?

記憶を頼りに前に進んで行く?

人生そんなもんだよと言い聞かせて強い鎧を身につける?

そんなことを考えていたら、最近なにもできないちっぽけな自分のままでした。

いつも心の深くを掘り下げて書くこのブログを書き進めることもおろそかになっている。

いっそのこと、旅でもらった暖かい記憶も学びも出会いも愛もぜんぶ、まるめて固めて、ぎゅぎゅってなにかに押し込めて、タンスのどこか奥のちょっと忘れられるとこらへんにしまえたらいいのになとも思った。

じゃなきゃ、「今」を生きていけないとすら思い始めている。

過去にもらったたくさんの物じゃないモノがあるから、いまの自分がある?

それはイエスだ。絶対にイエス。

じゃあ、どうやって「今」を生きる?

もらったモノは過去のもの。そこを思い返すことから始める今日は、果たして「今」なのか?

この答えはまだでない。

 

 

ただ、ひたすら、自分がほんとうにやりたいと思うことに没頭していきていく。

それは毎日ひたすら汗をかいて頑張ることでもない気がする。

自分が、ありのままであることが気持ちいいかどうか。

簡単に、はじめて街で会う人の顔に、じぶんの笑顔がうつっているかどうか。

セカイに自分の愛が広がっているかどうか・・・・・・

なのかな?

21世紀、世の中のあり方が「反応ありき」にどんどんかわっていく時代で、それでも自分らしくある。

その「自分らしさ」が、なにかのきっかけでもし世の中が大好きな数字や肩書きに変換されたとしても、

それらに惑わされない自分に近づいていけるように、そんな年月の経過を過ごして生きたいと思う。

この世の中でそんなことはできないと思っている人には、できない。

でも、なりたいと信じている人の元にはきっと何かしらのサインがあり、キーパーソンが現れ、導いてくれるもんだと思う。

このセカイは人間がつくったように見えて、そうじゃないから。

とりあえずここまで吐き出せた・・・。


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