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Wi-Fi公園で声をかけられたギャングスター達に連れられ、オールドハバナにやってきた。

スペイン語のできない私と、英語のできない彼らの間は常に会話が成り立たない状態だったけど、とりあえず彼らの陽気なジャスチャーに案内されるがまま、オールドハバナの街を歩いてみた。

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オールドハバナのシンボルでもある「カピトリオ」は昔、国会議事堂として使われていた場所で、当時は大統領もここに住んでいた。1929年に建設されたとあるので、キューバ革命以前に建設されたことになる。

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ここがアメリカの国会議事堂そっくりに造られた理由は、当時のキューバがアメリカ帝国の鬼畜支配下だったためだろう。

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私がフロリダからキューバに入国する前、チェ・ゲバラの盟友でもあったフィデル・カストロ前首相が亡くなったことをニュースで知った。90歳だった。まさにこれからキューバへ渡ろうとしていただけに、キューバの歴史を未だ熟知していなかった私ですら衝撃を受けた。

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フィデル・カストロは世界一の政治家だ

カストロの追悼式には100万人以上のキューバ国民や関係者が長蛇の列を作り、彼の死を嘆き尊ぶ様子が世界各国のニュースで報道された。その中で、ひとりの白髪の男性がTVカメラに向けて強く放った「彼に匹敵する人物は世界のどこにもいない」という言葉が、私の脳から心に向かいまっすぐ太い矢を刺した。

農園を営む家族の元に生まれたカストロは大学卒業後、ハバナ市内で弁護士として働きはじめるのだが、カストロの元へやってくる依頼人のほとんどは、アメリカと汚職関係にあった上流階級者による不正行為に痛めつけられている貧乏人達だった。

当時のキューバ大統領は、キューバ史上最悪の大統領ともいわれているバチスタ。フルネームを書くのも嫌なぐらい残虐な人間だったと歴史は記している。バチスタは自分以外を「人間」として尊重できないアメリカに飼い慣らされたモンスターと私はここで例えよう。私利私欲のために国民を飢え死にするまでタダ同然で働かせ、反抗すると拷問又は表向き合法にこの世から消されるのだ。

政権議員の中には農民少女を暴行した人間もいたが刑期は権力によって免除された。労働者は給料だけでなく退職金や年金までもが上司によって横領され、理不尽な借金が膨れるばかりだった。農民達は一生自分のものにならない畑を耕すことに精を尽くし、電気もない荒屋でパンも食べられずに死ぬまで働いた。病気になっても病院は政治家に紹介された患者しか受け入れず、毎年数千もの子供達が悪衛生下に耐えきれず亡くなった。もちろん子供達だけじゃなかっただろう...

一方で、バチスタ含めアメリカとの賄賂関係にあった極わずかの富裕層達は、市内に高級ホテルやナイトクラブやカジノを作り、好き放題に贅沢を満喫していた。

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その軒下では今まさに国民が何千人も死にかけているのに見向きもしなかった。現代の私たちの「物差し」なんて通用しない鳥肌の立つ恐怖政治、それがフィデル・カストロが青年だった頃のキューバ、そしてラテンアメリカ全土に広がる現実だったことを知っておく必要がある。

そんなバチスタ政権に対し、カストロは法に基づいて告発状を提出し攻撃の行動をとった。だが、モンスターに法など通じるわけがなく、いよいよカストロはバチスタ政権から祖国国民を開放するためには武力闘争以外の道はないと決起した。時は1950年代、私の両親が生まれた年代でそう遠くはない。カストロは当時27歳だった。

彼に匹敵する人物は世界のどこにもいない」というキューバ国民の言葉を私が拾えないわけがなかった。カストロという大男(身長191cmだった!)は、私がこの世に生まれて唯一、自ら率先して行動を起こし、同志達を率いながら戦場に命を投げ出して戦い、キューバを社会主義国家へと率いてきた英雄だったからだ。

それは常に死と隣合わせであり、時には投獄もされた。漫画の中でしか描かれないような骨のある男が、つい最近まで私たちと同じ形をした人間として、同じ世の中に生きていたのだ(号泣)

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カストロと空(ハバナで撮影)

カストロとゲバラの大きな違い

カストロとゲバラは、この世で最も強い絆と革命的情熱で結ばれた最強最高の同志だった。年齢は二歳カストロが上だ。カストロがキューバの心臓なら、ゲバラは脳と言われていた。だが二人の持つキャラクターは面白いほどに違っていた。

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引用元:Pinterest

カストロは現実主義者で常に祖国キューバの自由を最優先にした行動をとる、いえばビジネスマンだった。でもゲバラは違った。ゲバラは理想主義者であり、自分の理想信念にいつも純粋に従った。だからといって理想にただ胸を膨らませて終いではなく、彼はその確固たる理想を貫くために、誰よりも行動し常に辛い道を選んで生きてきたのだ。当時のラテンアメリカにおいて怒りを持つことはできても、理想または「夢」を貫き続けるということがどれだけ過酷を屈するものであっただろうか、想像も難い。

彼が39歳という若さでこの世を去ることになった理由も、実はそこにある

正直私は、ゲバラのことを知れば知るほど、自分という人間がクズで卑しくて救いようない生き物に思えて仕方なかった。ゲバラは二十世紀に誕生した人類の中で、最も私利私欲のない完全無欠な愛を持った純真な人間だと私は言い切る。生まれてから39歳という若さでこの世を去るまで、彼は自分以外の人間のためだけに常に自分を信じて生きていた

次からはいよいよ、カストロ元首相とキューバ革命を共に成功させたチェ・ゲバラの生涯について、そして物質的な死後もなお生き続ける二人の「思想」について、偉大な革命家から学んだを想いを熱く語っていきたい。この記事はかなり長くなるが、読み応えはあることをここに先ず伝えておくと共に、ある書籍との出逢いが私の人生観をさらに良い方へと導いてくれたことへ謝辞させて頂きたい。

私がこの記事を書けているのは、30年以上もチェ・ゲバラという偉大な革命家の人生を追いかけてきた、三好徹さんの情熱と行動力により出版された下記著書のお陰です。素晴らしい本を世に与えてくださり、本当にありがとうございます。

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エルネスト・ゲバラの学生時代

名門家庭に生まれた喘息持ちの子供

本名エルネスト・ゲバラ。1928年にアルゼンチン出身の名門家庭に長男として生まれるが、早産だった影響もあり幼い頃から病弱で、2歳の頃に喘息と診断される。両親はゲバラの健康を第一に考え、環境の良い場所へと何度か移住し、その度に職を変える労力を惜しまなかった様子からも、ゲバラの純真さはどこか家系譲りな感じがしなくない。

また、ゲバラの両親は子供達に名門らしい生き方をあえてさせなかった。常に勉学に努めるようにと説き、大学まで必ず卒業するようにと約束させた。父はゲバラに「体をいつも鍛えるように」と教えた。また親のすすめで幼い頃から農家の手伝いもしていたそうだが、その経験からゲバラは農民が如何に貧しい暮らしをしているかということを子供の頃から知っていた

幼少期から酷い喘息に悩まされていたゲバラだったが、ラグビーやサッカーにも挑戦し、父親に言われたとおり体を鍛える努力を常に怠らなかった。それどころか高校時代は名プレーヤーでもあったそうだ!また頭も抜きん出て賢く、愛読家としても有名で、その証拠はこれまでゲバラが残してきた国家演説や手紙(後ほど紹介)からも秀逸な文才を伺える。ちなみに母国語であるスペイン語以外にフランス語と英語もできたという。(ゲバラ本人は自身の英語を否定していたそう)

ゲバラの幼少期を想像するにあたって、喘息を抱えた病弱な子供を想像するのは少し辻褄があわない。彼は、そのキレる頭と何事にも熱心に取り組む姿勢に加えて、常に世界を純粋な心で透視できる腕白な子供だったと私は思う。

13歳でアルゼンチン国内を一人で放浪

ゲバラは、13歳の夏休み前に「国内を旅したい」と両親に申し出た。装備は小さなモーターを装着した自転車、ジャケット、マテ茶、湯沸かし器、5米ドルほどの所持金だけだったそうだ。もちろん親は突然の申し出に仰天したが、この経験が目の前の息子にとって必要だということを知っていたのだろう、そのまま家を送り出し、ゲバラ人生初の冒険が始まった。

当時住んでいたコルドバを出発し、アルゼンチン北部一帯を放浪したと本にはあった。旅の基本は野宿で、農園などを手伝いながら食事にありつき、喘息の発作に見舞われると休みを取り、また旅を続けながらゲバラはアルゼンチン国内にはびこる現実問題に触れることになった。

当時のラテンアメリカ全土を覆う国家汚職は、13歳の少年ゲバラに「拳銃をくれ。武器なしで政府に楯突くことなど意味がない」という発言をさせたほど悪行に満ちていた。クーデターは至る場所で起きていたし、革命による新政権誕生なども珍しいことではなかったそうだ。もちろん暗殺などにより新政権が誕生しても汚職の連鎖はひどくなる一方で、中立を唱える人間はこの世から存在を消されるか、他国に亡命を余儀されるかだった。

南米冒険旅へ「モーターサイクルダイアリーズ」

アルゼンチン国内旅で自信をつけたゲバラは学業の合間に時間ができると旅を好むようになった。友人達と次の旅先の計画をしては無銭旅行をし、大学生になった頃には国外への探究心を隠せなかった。だがそれは今までのような徒歩や自転車などの交通手段では不可能だった。というのも、アルゼンチンとチリの国境を超えるには、アンデス山脈最高峰アコンカグアを越えなければいけないからだ。

メンドーサ(アルゼンチン)からチリの首都であるサンティアゴまでは鉄道が通っているが、ゲバラの旅のルーツは陸路で人々の生活を知ることであって、電車に揺られて旅するのでは意味を果たさなかった。

そんな時、親友アルベルト・グラナードが、中古のオートバイを手に入れたことで国境越えの問題が解決する。グラナード(当時29歳)と当時まだ医大生だったゲバラ(23歳)は、いよいよ念願の南米大陸冒険旅をスタートさせた!

その青春とも過酷ともいえる冒険の様子を映画化した「モーターサイクルダイアリーズ」は、ロードムービーの名作なので是非見て欲しい!静かなコントラストで展開する描写からは想像できないほど壮大な冒険心を与えられます。ゲバラと一緒に旅をしたグラナードさんご本人も映画の制作を手伝い、ラストシーンに登場されています。

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ゲバラとグラナードが旅したルート(南米大陸)

私はまだ南米の大陸を一度も踏んだことがないのですが、行った際にはこの二人が通ったルートを基軸に周ろうと決めているので、記録も兼ねてゲバラとグラナードが行ったルートを紹介しておきます。括弧()の中は総移動距離と到着日です。(数値感の参考:地球は4万キロメートルです)

  1. コルドバ(出発地)
  2. ピエドラ・デル・アギーラ(1,809km 1/29)
  3. サン・マルティン・デ・ロス・アンデス(2,051km 1/31)
  4. サン・カルロス・デ・バリローチェ(2,270km 2/3)
  5. フリアス湖(2,306km 2/15)
  6. テムコ(2,772km 2/18)
  7. ロス・アンヘレス(2,940km 2/26)
  8. バルパライソ(3,573km 3/7)
  9. アタカマ砂漠(4,960km 3/11)
  10. チェキカマタ
  11. マチュピチュ(7,014km
  12. リマ(8,198km 5/12)
  13. サン・パブロ(10,223km 6/8)
  14. レティシア(10,240km 6/22)
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参考:モーターサイクルダイアリーズ

1951年の終わり、ゲバラとグラナードは家族に見送られ地元コルドバを出発する。一台の中古バイクを交代運転しアンデスの展望や氷河を横に壮絶な移動を重ね、アンデスを越えることはできたのだが、国境を越えたと同時にバイクは鉄クズに代わり二度と乗れなくなってしまった。

そこからはヒッチハイクと徒歩で旅を進めた。アタカマ砂漠とチェキカマタ銅山を徒歩で踏破し、アマゾン川をイカダで下る様子が映画では描写されている。また二人はペルーでインカ文明の技術や歴史に興味を持ち、何度もクスコから険しい山の急斜面を越えてマチュピチュへ訪れたそうだ。

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引用元:モーターサイクルダイアリーズ

旅をするために必要なお金や食料は各所で色んな仕事をしながら賄った。トラック運転手、皿洗い、野菜の皮むき、雑用、門衛、時にはサッカーのコーチにまでなりきりチームを勝利に導いたこともあったそうだ。付け加えておくが、働いたからと言って毎日満足に食べ物や宿を得られるわけではなく、二人の旅は最高の青春旅とも言えなくないが、それ以上に過酷な大冒険だったと思う。ゲバラは何度も喘息に苦しみ倒れているが、冒険への情熱かもしくはこの頃から常に芽生え始めていた本人も未だ気付いていなかった革命精神に導かれてか、弱音で旅を中断することはなく、二人はある目的地に到着する

難病療養所でのボランティアと相方グラナードとの別れ

ゲバラは医大生であり、グラナードもまた薬学と生化学を学んでいた(後に医師)ことから、出逢う人々を診察することも多かった。時には医者として賃金を得た。医学に関心のある二人が当初から目的にしていた旅先は、ハンセン病療養所でボランティアをすることだった。遠方からわざわざ無償奉仕にやってくる志高い二人の若者を診療所もあたたかく受け入れた。

ハンセン病は感染力が弱くうつりにくい病気だが、医師たちがいる診療所から患者たちが滞在する療養所は川をボートで渡った先にあり、感染を恐れてか明らかな差別風刺なのか、、、二人はボランティアに従事しながら各々に考えを巡らした。療養所で患者に触れるときは手袋を必ず装着するようにと指示されても二人はそれを良心で守らなかった

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引用元:モーターサイクルダイアリーズ

アマゾン奥地の療養所でボランティアを終えた二人はイカダに乗って川を下りコロンビアに入国するが、当時の大統領の独裁政権令により外国人の入国を厳重監視されており、二人はあまりにも酷い格好だったという理由で危険人物とみなされ逮捕されてしまった。ゲバラとグラナードは激しく抗議し幸運にも釈放されたのだが、二人を捕まえた警官は何人もの市民を殺している悪質な人間だということを町人に知らされ、すぐに国を出たほうがいいと勧められる。

その後、ベネズエラの首都カラカスで半年以上に及んだ二人の旅はいよいよ終わりを迎える。グラナードは友人医師の紹介でカラカス市内にある病院で仕事を紹介してもらうことになっていた。ゲバラはまだ現役医学生で翌年三月に大学を卒業しなければならない。これは親との約束でもある。ゲバラはこれまで大抵の試験を首席でパスしてきたが、グラナードは今回ばかりは単位のことが心配になりすぐに大学に戻ったほうがいいと説得した。

だがゲバラは「大学は大丈夫、必ず卒業する」と言い、カラカス市内で偶然出逢った親しい知人の輸送機でマイアミ(アメリカ)へ飛んだ。ゲバラ然りカストロもそうなのだが、二人の歴史にはこの「偶然」という言葉がよく登場する。まるで何かが二人を予め用意した道へ導いているようなそれが幾度となく起きている。

グラナードとゲバラは「来年会おう」と言って別れたが、再会を果たしたのは8年後、1959年キューバ革命の年だった。

己のエゴを常に捨てて生き抜いたゲバラ

ゲバラがマイアミで何を見て考えたのかはどこにも書き残されていないそうだが、その後のゲバラの行動から察すると、旅で目の当たりにしてきたラテンアメリカの貧困問題とアメリカ帝国主義の繁栄贅沢ぶりの歪な格差だったと想像できる。

マイアミから帰国した後、ゲバラは約束通り大学を卒業し晴れて医師となり、アルゼンチン屈指の財産家の美女とも婚約し、誰もが羨む上流階級への一歩を踏み出した。医師としての素質も十分だったゲバラは地元で開業医にでもなればきっと多くの病人患者から慕われる徳の高い人間にきっとなれた。だが彼は、その全ての栄えある未来を放棄し、これまでの旅路で目の当たりにしてきたラテンアメリカに現存する苦難への革命精神に導かれるまま次の旅先へと向かい始める。当時の想いは、キューバ革命後に公衆衛生省で「医師の任務」をテーマに演説を行ったときの以下の内容から強く伺える。

何年か前にわたしの経歴が医師としてはじまったことを大部分の人は知っている。そして、わたしが医師として出発し、さらに医学を勉強しはじめたとき、いま革命家として持っている内容の大半は、わたしの思想の倉には欠けていた。人類の助けになる何かを発見することを夢想していたのである。しかし、そのころ獲得しようとしたのは、個人的な成功だった。わたしは、われわれのすべてのものと同じく、幼稚な考えにとりつかれていたのだった。

卒業後、特別な事情と、さらにはおそらくわたしの性格もあって、わたしはアメリカ(※ここでは南北アメリカのこと)を旅行しはじめ、アメリカ全土を知った。(中略)そして有名な研究者になったり医学に重要な貢献をしたりすることと同じくらい大事な何かがあることを悟りはじめた。それは、(貧困・飢え・病気にしいたげられている)これらの人々を救うことであった。

引用:チェ・ゲバラ伝(三好徹)

ゲバラは、物や立場の配下に自分があるうちは例えそれがどれだけ悪影響なきものだったとしても本当の「自律」した行動ができなくなることを強く感じていた。また、自分を「守るべきもの」と常に同じ立場に置かなければそれは真の救いではないことも悟っていた。そんな完全無垢な彼の生き方は、まるで二十世紀のキリスト又は釈迦牟尼と比喩しても劣らないと私は思う。

死後もなお、世界中で多くの人間がゲバラの生き方に感化されるのが何よりその所以だ。

英雄チェ・ゲバラへ「キューバ革命」

アメリカ資本主義への怒り「グアテマラ革命」

1952年、ゲバラは母国を再出発した。自分の無垢な心に納得できる生き方を求めながらボリビアに向かった。首都ラパスは世界一標高の高い場所であり大抵の旅人は高山病にかかるが、ゲバラは喘息持ちにも関わらずこの高地にすぐ順応したという。

ボリビアは、錫(すず)・銅・銀などの鉱業資源豊かな国であったが、その資源はアメリカ資本の支配下にあり先住民インディオ達は労働者として日々駆り出され貧困生活を強いられていた。粘土作りの小屋に住み、与えられるコカの葉(コカインの原料)で労働の疲れと飢えを紛らわしていた。コカの葉とは言うまでもなく日本では違法薬物とされている。

ゲバラは毎日のように歩き周り、図書館であらゆる文献を読み、日銭を得るために医師以外の仕事もしながらラテンアメリカの現状をより広く知っていく。

ボリビアの後は、世界一のバナナ大国であるエクアドル、その後はグアテマラに入国したが、ここでもまた「ユナイテッドフルーツカンパニー」というアメリカ資本企業にその大部分を占領されていた。

ゲバラが再出発した同年1952年、ラテンアメリカ史上最も革命的な出来事が起きた。グアテマラ大統領ハコボ・アルベンスが農地改革法に署名し、ユナイテッドフルーツに所有されていた農地の大部分を農民に開放したのだ。「グアテマラ革命」である。

無論、アメリカ側がこれを黙って見過ごすわけもなく、反アルべンス政権の人間に金と権力を握らせ武力行使にに出た。ゲバラは外国人だったがアルベンスの行動に敬意を抱いた。グアテマラ国民達に「武器を持って戦え」と説き、自分自身も戦いの最前線に入れてくれと政府に頼み込んだ。だが、アメリカ帝国をバックに持った敵軍に空撃を仕掛けられアルべンス政権は崩壊した。アルべンス本人はメキシコに亡命し、ゲバラもこの戦いにより処刑予定リストに加えられることとなり、同じくメキシコへ渡った。

ゲバラとカストロの出逢い

当時のメキシコは、1910年代に独裁政権を打倒して社会革命を成し遂げており、反ファシズムの思想もあったことから亡命者達の天国といわれていた。ゲバラはここで自分と同じ外国人亡命者と多く知り合う中で、運命を変える出逢いが訪れる。ひとつは初妻イゲラとの出逢い、そしてもうひとつがカストロ兄弟だった。

ゲバラはまず弟のラウル・カストロに出逢い、キューバ離島にある監獄に未だ投獄されている兄が釈放された後、メキシコで体制を作り直し、祖国キューバを苦しめ続けるバチスタに再び戦いを挑む計画でいることを知った。その後、ゲバラとカストロがメキシコでどのように初の出逢いを果たしたのか、という記録が残っていないのがとても不思議に思えて仕方ない。後にキューバ革命の最重要人物となる二人の出逢いなだけに、やはり二人の出逢いは何者かが宇宙から差し出した運命の采配だったのか。カストロはゲバラの追悼演説で当時をこう語っている。

わたしが初めてチェに会ったのは、1955年7月か8月のある日だった。そして一夜のうちに、かれがその著作のなかで回想しているように、かれは、未来のグランマ号の遠征隊の一員になった。(中略)チェはラウルといっしょに、グランマ号乗員リストの最初のふたりのうちのひとりになったのだ。チェのような男はこうるさい議論を要求しなかった。かれにとっては、グアテマラと同じような状況に対して武器を手に戦うことを決意した男たちがいるのだとわかれば、それで満足であった。これらの男たちが純粋に革命的な愛国的な理想によって動かされているとわかればことたりた。それでじゅうぶんだったのである。

引用:チェ・ゲバラ伝(三好徹)

ここまで随分とキューバ革命に関する歴史において書いてきたが、正直私はこれまでの人生でこういった類の勉強に関心を持ったこともなく学生時代も一番苦手とした科目だった。だけど、今回のチェ・ゲバラに関するそれにおいては全く別次元の興味を与えられた。私が今学んでいることは、ゲバラという稀有な人間の美しい道徳であり精神だからだ。当時の彼が持っていた純粋極まる心と強い精神に、自分の内に眠ったままの何かを統合させたい衝動のまま、彼を追いかけて未だこの記事を完成させようとしている、もうしばらくお付き合いくださいませ。

「勝利か死か」バチスタ政権ついに倒れる

ゲバラは、セルバンテス著書の冒険物語「ドン・キホーテ」が好きだったというが、彼らの成し遂げたことはまさにこの寓話そのものだった。資金も武器も不足していたカストロ率いる革命軍は、故障した8人乗りのボートに82名の隊員とありったけの武器や食料を乗せ、2万人のバチスタ軍を本気で倒すと信じてメキシコからキューバへ渡った。カストロはデッキに立って力強くこう言ったという。「1956年、われわれは自由をかちとるか、さもなくば殉教者となるだろう」

戦争の結果は歴史の通り、82名から始まった革命軍の勝利だ。

esa bandera ese cielo esta tierra

カストロの圧倒的な統率力とカリスマ的な戦略に加え、戦いの天才であったカミーロ・シエンフエゴスなどの素晴らしい功績、そしてゲバラは相変わらず喘息をかかえながらも医師そして兵隊として常に一番苦しい場所に自分を置いて献身的に戦った。敵兵であっても負傷者は関係なく治療した。そんなゲバラの並大抵ではない行動にカストロは大きく感銘を受け絶大に信頼を置くようになり、ゲバラもまたカストロの司令には従順に働いた。二人はいつもお互いが何を考えてどこに向いているのか分かっていた。二人の信頼を引き裂くことなど誰にもできないほどに。

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ゲバラと並んで大人気の英雄カミーロ

カストロはメディアもうまく活用しながら、バチスタ政権に以前から不満を抱えていた農民達を着々と味方につけて政府側に狼狽を与えた。メディア陣は、ゲリラ戦において類希ない頭角を現していたゲバラへの取材も熱望したが、彼は自己宣伝というものをまるで好まず断り続けていた。だがついに断りきれなくなってしまい、ラテンアメリカで二人の名前を知らないものはいないほど有名になってしまったのだ

永遠の勝利まで、祖国か死か

大統領バチスタは、ゲバラとカストロがハバナに到着する前に国をあっさり捨て他国へ亡命した。カストロが戦車に乗ってハバナに入ると市民達はみな「フィデル!フィデル!」と歓喜をあげた。そして、カストロの勝利演説が始まった直後、鳩が飛んできてカストロの肩にとまった。鳩は「平和の象徴」ともされている。

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引用元:Havana Times

1959年1月8日、国民のだれもが勝利を見たと思える瞬間だったが、ゲバラはキューバはじめラテンアメリカに属する国々が、アメリカやソ連または中国などの大帝国の経済支配下にあるうちは、それはまだ「本当の勝利ではない」ことを強く説き続けた。ゲバラとカストロ率いる革命により、キューバが大帝国アメリカを大きく敵にまわすことになったのは周知の通りであり、皆が第三次世界大戦の幕開けを予感したキューバ危機へと時代はさらに激動する。

24の歳に故郷アルゼンチンを再出発したゲバラは、30歳になっていた。そしてなぜ彼は、39歳という若さで死んでしまうことになったのか、後編でまた熱く書き記そうと思う。

(つづく)

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