
そうそう。
たまに言葉の選び方が上手くない人間に出逢う。
結構な確率でおるかな、そういう人。
なんでもジョークジョークって最後に言えば、何事もなく落着すると思ってる人もおるけど、そんなこと全くない。
そもそも人を悲しませるジョークなんてものは、ただの暴力や。
ジョークをするなら最後には笑いを咲かせんとジョークにならん。
正直に生きることは素晴らしいことやけど、自分の思いや考えを表現しきる術を知らないために、下手くそで雑な言葉を平気で放つ。
それで多少なり傷つく相手もいるってことをもっと自覚したほうがいい。
自分の内側を表現仕切る言葉を知らないのなら、無理して無責任な言葉を適当に並べないでほしい。
例えそれが親しい中であろうと、一見さんであろうと。
わたしさぁ、この表現力の欠如ってやつ、近年のIT革命やらSNSとインターネットの手軽さが悪影響してるんじゃないかと思うんよね。
「みんながクリエイティブになれる時代の幕開けだ」と、レールに敷かれたような夢を持たされてる背景の裏側、ちゃんと見なあかん。
創造(クリエイティブ)は、そんなに手軽に創り出せるものではない。
そしたら確実に今のインターネットの世界は、人間の唯一無二な創造力を破壊していってることに強く気付くはずや。
そう、プロパガンダの親戚が産まれてる。
エリートが操作するNWO(ニューワールドオーダー)の手はもう、私たちに便利・手軽という名前の餌を巻き、あらゆる感性にまで侵食している。
親指ひとつで「ゼッケイサツエイシタ」と発信し
親指ひとつで「カンドウシタ」をいいね♥で済まし
親指ひとつで「スクロールリョコウ」して行った気になり
親指ひとつで「アイテノキンキョウ」を探り
親指ひとつで「アイシテル」って恋人に伝えて
親指ひとつで「イラネー」ってフォローをはずして終了
そこになんの想いや敬意があるんだろう、泣けてきたわ。
表現の自由である世界は、無責任で軽い言葉を並べて作る世界ではない。
下手くそで、逃げ腰な言葉や簡易なアクションをする人が、そーゆー意味で言いたいじゃないんやろなってことぐらい察知できるフレキシブルさは私にはあるけど、まだまだ繊細で弱い人間がこの社会にはたくさんおる。
もしかしたら社会構造にフレキシブルになるのは、意外と間違えてるのかもしれない。
もっと当たり前の流れに対して異端児にならんとあかん。
平気で敬意のない心を発する人間とは私は確実に距離をあける。
たとえ親でも、良くない言葉を使ってたら「やめや?」って真顔で注意する。
思考や心から良い言葉やアクションを生みだせない人間の現実はどうなるとおもう?答えはかんたんの極みや。
だから、自分の言葉(思考)がどれだけ周りに影響を及ぼすかってことにちゃんと責任を持ってなんでも発する練習を毎回意識して無意識にできるようになるまで重ねてほしいと切に思う。
思考は現実になる。
不器用だからってなに言っても許されるのも、リミットがあるよ。
私がこうやって書くことは自責してること、自分が未熟だと気付いたから書いてること。
生き方の矛盾をとことん整理し、考えを尽くして、有言実行しながら生きる。
整理のできない人間にスピリットも奇跡もないとは結構強く思うよ。
とまぁ、想ったこと書いたけど理想郷という所存でもありまして、とりあえず私は今日明日明後日これからも関わる人間と「ばいばーい!」するときに、相手が笑顔を見せてくれるような人間であり続けたい。
途中段階はええねん、生き物同士やからぶつかるのは当たり前やし、私はもっとぶつかれーって応援する。
ぶつかりもせんと相手の何がわかんねん説。
とりあえず「またねー!」の瞬間は、濁りのない笑顔にお互いなってるように生きるねん、私は。
って感じで、今は日本を気ままに旅してます。
涙がでるほど、たくさんの奇跡的な絶景と感動に出逢っています。

別の大きなお仕事の構想も(ありがたいことに)あったりで、なかなかブログへの時間配分ができてないけど、私が美しいセカイをたくさんこのブログを通して伝えるから、懲りずにまた愛旅を覗きにきてね:D
(おわり)